毎日の社会で起きたこと

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新型コロナ後のニューノーマルとはどんな常態か

www.bloomberg.co.jp

 

 アメリカも随分と悲観的になったものだが、「ニューノーマル」なんてもともとは中国共産党習近平らが使っていた言葉だ。

 そんな言葉を弄していると考えれば、多少は割り引いた方がよいかも知れない。

 

 ただ実は我々にとってもこうした悲観シナリオが流布されることは都合がいい。

 下がったところで安く買えるからだ。

 せいぜいそのためにこうした記事が役にたってくれればとは正直に思う。

 

 しかしそれは別としても、この記事で言っている「ニューノーマル」とはどんな世界をイメージしているのだろう。

 全てが萎縮し膠着し、ひたすらリスクオフが続く世界をイメージしているのだろうか。

 

 しかしそれはあり得ない。アメリカはそのようなストック型社会ではないからだ。

 


 だいたい、この記事のような悲観的な論調には必ず忘れられていることがある。


 それは必要最低限の有効需要は必ず残るということ。

 

 落ち込んだ今の供給によってサプライサイドのシステムは破壊される。これを復元するためには必ず新たな投資が必要になるということだ。

 


 実は止まった供給の方が萎縮した需要よりも大きい。

 グローバル化というのはもともとはそれだ。

 失業率の過激な上昇もこれを証明している。

 

 急速に消費が落ちたり信用力の低下が起きた歴史的な不況長期化の事例に比べ、今回は働くこと、サービスの提供がまず落ちた。

 

 
 いくら消費が萎縮したとしても、必ず消費されるものはある。

 食品や必需品、医薬品、生きてゆくために手に入れなければならないものはある。

 

  アメリカ全土が「アーミッシュ」になってしまうわけではないのだ。


 そうなると、止まった供給が再開される時、つまりビジネスが再開される時、残り少なく見えるそのパイを狙って激しく争奪戦が始まることになる。

 

  競争が生じれば、当然のように再び経済は効率化のために投資が行われ、再構成がされてゆくことになる。

 

 今回は、止めていたエンジンを再起動するように同じ手順を繰り返すようにはゆかないのだ。

 

  新たにコロナのようなリスクを前提としたビジネスのあり方も必要になってくる。

 その前提の上で資金調達がスムーズにできるようになるはずで、それもまた新しくビジネスを作り直すことにやり、それも競争になる。

 


 だから、もし政策当局が新たな社会システムの青写真を伝え、この再構築に積極的にコミットするなら、いち早く適応して対応しようとするための競争が生じ、経済は再び活発に動き始めるだろう。

 

 アメリカ経済が貯蓄型社会に変質してゆくとは考えられない。

 構造的にもアメリカは成長型社会なのだ。


 最も楽観的なシナリオとしては、リーマン後に作られた強固な金融システムを後ろ盾として、こうした実物投資への活発な動きが循環し加速してゆくことだ。

  かなりその確率は高いと思う。

 

 ただし世界がこの恩恵にあずかれるかどうかはまた別の問題となる。

 


 少なくともアメリカ国内では暗く悲惨な時間は短いと考えていい。

 

 我々の方としては、どれだけその真似ができるかというだけだ。