毎日の社会で起きたこと

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学力の格差を劣等な人物が論じる

jbpress.ismedia.jp

 

 こういう奇妙な言い方は、昔から何度となく繰り返されてきたことだ。

 命題の設定からして曖昧、そしてその過程でなぜか潜りこませた自己弁護、自己アピールの数々。

 いったいこの記事はなんのためなのか(笑)。

 ゆとり教育の弁護なのか、それとも日本を劣化させようとする陰謀なのか。

 

 こういうポジショントークの類は、特に今のコロナ感染の拡大の状況で既存のメディアにに目立つようになったことだ。

 

 劣等な連中がその存在意義を隠すようにして、自分の肩書きについて奇妙な弁明をし、歪んで間違った論理を展開するという現象が見られる。

 今回の場合は、「土壌学」か。

 

 奇しくも、熊本かなんかで大雨の被害があったばかりだww。

どういう一致だろうか。

 

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 phd(博士号)を持っているというなら、それなりの理屈が展開できると我々は思っているが、日本の博士号連中にはそのような脳味噌はない。

 

 

 子供の学力格差は、ゆとり教育や自由放任をすれば確かに広がらないだろう。

 しかしそれは、全体として劣等な連中が多く生み出されるというだけなのだ。

 「格差」とは何だ。それは差があるということだ。

 

 すでに政府の「ゆとり教育」が間違っていたということは自明のこととされている。

 

 馬鹿ばかりになれば、そこに格差はないのは当然だ。

 全てのガキが劣っているからだ。

 

 

 学力格差は容認できるし、これを支援しなければならないほどだ。

 そのために何をすべきか、それは強制に耐えた者をふるいにかけるというシステムを維持することだ。

 

 試験、課題、テスト、これらはみな強制だ。

 やれなければ劣等の烙印が押されるということを伝えておく。

 

 そのプレッシャーに耐え、最低限の課題をこなした連中は自分の本当の興味へと関心を向ける資格がある。

 

 数学の天才が欲しいなら統合失調症の連中で十分だ。彼らは勝手に育つ。

 彼らはそもそも学校すら出ないだろう。

 

 

 競争を避け、敗者を産まないような方向へ誘導するこのような言説は大衆にとっての麻薬だ。

 ほとんどの連中は自分らに自信がない。

 親として自身がない。

 だからその自己正当化を支援する言説というのは彼らに格好の好物なのだ。

 

 それにおもねることで、この筆者には小銭がはいる。

 しかし、この言論というものがどれだけ歪んでいるのか、この筆者はその責任を分かっているのだろうか。

 

 自分の目先のケチ臭いたかだか数千、数万円の原稿料のために、異常なほど歪んで科学的でもない言説を流布するその罪深さを。

 

 退散せよ。

 お前の土壌学とやらは、マンション杭打ちのインチキを止められなかったことですでにに瓦解しているはずだ。

 タレントよろしく異分野に進出でもするつもりだろうか。

 

 ホームレスとなりくたばるがいい。

 家族ともどもその欺瞞を悔い改めよ。

 

 

 それこそ、富の格差ならそれは労働分配率であり、逆に学力の格差というのはもっと違う重要なことだ。

 「強制したらやる気をなくす」こんな論理しか展開できない頭がおかしい連中が、こんなネットメディアに平然と書いている。

 

 我々はそのことにこそ大いに危惧すべきなのだ。

 

 

 偏差値というのは競争の結果に生まれた発想だ。

 全員が百点の世界ではない。バラつきのある、格差のある世界だ。

 それは、少しでもよい生徒を採用しようという学校側の動機に他ならない。

 

 その学力の格差を否定してどうしようと言うのか。

 言葉の前提からしてそもそも間違っていることに気がつけ。

 

 この学力の格差が「縮む」としたら、控えめに言っても「画一的な発想しか生まれない社会」ということになる。

 

 それは独裁を通じさせる社会であり、欺瞞や偽善しかない社会となるだろう。

 中国がそういう方向をとりつつある。

 そうして、他国に侵略してみせ、そこで初めて格差、すなわち「中国人の優位」を証明することになるのだ。

 

 馬鹿がいて、くだらぬ人生を歩むから、それを支援しようと律儀な義侠心が生まれる。それが社会だ。

 社会の3割だけが能力があり、残りは怠け者と無能でできている。

 

 その全体のレベルを上げたいというのであれば競争と格差が必要だ。

 格差、つまり乖離というのはそうそう極端には走らないものだから。

 

 成績優秀な者は王様、そうでない者は奴隷、そんな学校にはならないし、そんなルールなどできようがない。

  格差があっても、せいぜいが優秀なグループと普通の連中というわけ方がされるぐらいだ。

 

 それなら筆者、お前は何を怖れているのか。

 お前自身が無能であること、怠け者であることのインチキが暴露されることなのではないか。

 

 

 結局、現在のメディアはことごとく自己弁護や自作自演、ポジショントークに染まりつつある。

 そこにに馬鹿が群れ、自己弁護を潜り込ませて騒ぎ立てる言論に走っている。

 

 「教育における格差」などという、こんな自明のことを否定して、シロウトの分際で、インチキ土壌学者の分際で、あたかも教育者、その教育の先導者よろしく振舞う嘘は万死に値する。

 

 間違った言説を開陳して、自分の劣等性を曝露しているだけなのだから。

 

 

 偽善よ去れ。

 コロナで我々はそれどころではない。

 

 こんな害毒がこうしてみられることは興味深い。

 こいつが腹でも切ったなら、褒めてやろう。