中国の歴史教科書に文革批判が復活
彼らはミャンマーにもいるし、アジアの内陸部で隠然とした影響力を保っている。まるで「イルミナティ」や「ネオコン」のような勢力と考えればいい。
そして習近平は毛氏を崇拝し、その政治方法も酷似していると言われている。
それからすればこの事実は衝撃的だ。
この記事は「批判に配慮か」などとしているが、あまりにも能天気な観測と言う他はない。
専制君主、皇帝となった習近平が、世間の批判に配慮するなどとうてい考えられないからだ。
そうすると、考えられるのは、習近平への批判勢力が今また力を増しているということがひとつに考えられる。
もちろん、いくら習近平でも教科書に文句をつけるような恥さらしなことはできないはずだ。指を咥えてみているしかない。
文革はれっきとした「歴史」であり、動かしたり隠蔽するにはよほどのコンセンサスが必要だ。
天安門で毎年の記念日ごとにあれだけ神経を尖らせているのは、どんなに隠蔽しようとも油断は出来ないことを表している。
習近平は警察権力を掌握し、軍部については次々と傀儡を送り込んだはいいが、まだ東シナ海やインドでの偶発的衝突があるところを見ると反発があることは想像ができる。
本来、掌握しているのであれば偶発的な衝突など譴責や処分に値するものだからだ。
教科書での毛沢東批判の記述は大胆な反逆だと言えるだろう。
もちろんこのことは中国国内では報道などされないはずだ。
こうして習近平の知らぬところで既成事実が積み重ねられ、やがてコロナと経済運営などの責任が追及され、無能として失脚という筋書きがすでに書かれていることは十分に考えられる。
最近、習近平が李克強を外して経済運営しているという観測があったが、それとて、逆に、いよいよ習近平に全ての責任をかぶせる算段が進んでいるということが考えられる。
なにしろ、習近平自身は権力基盤を固め、永世皇帝だとやり、当初は経済運営はいつでも詰め腹を切らせられると李克強を中心に動いていたはずだ。
なのに経済運営は自身がやると、突然に攻守交替することは考えにくい。
しかしでは、仮に習近平の権力基盤が相変わらず磐石であると仮定すると、どうなるか。
1.李克強にやらせずとも経済回復の見通しが立った。手柄はやれぬ。
2.わざわざ毛沢東批判と受け取られる記述をさせ、その責任を問い政敵を討つ。
3.あるいは習近平が直々に宣託を下す形で毛氏批判への反論を行うための準備。
挙げてみれば可能性はないわけではないが、どれもとっぴがないように思えるがどうか。
考えてみれば毛氏への個人崇拝が高じてかつての権力の暴走につながったのであり、習近平はその集団統治を否定し、ネジを巻き戻したと言われている。
まだまだ「思想闘争」は済んでおらず、政敵を徹底的に潰そうとしているというわけか。
しかし、そうだとしても、それほど経済運営は順風満帆ではないし、コロナの問題はこれから冬にかけてどうなるか分からない。
それは世界中の政治家が懸念していることなはずだ。
こんなことにかまけている暇があるとは思えないのだが。
独裁者は常に孤立してゆく。
中国崩壊であれば、これほどアジアの安定にとってよいことはない。