フレンチを唾棄せよ
なんとも気持ちの悪いニュースだ。
あまりにもムカつくから、このところ記事の更新を躊躇ってしまったほどだ。
フランスで教師が授業中に生徒に対し、モハメットを愚弄した「風刺画」を見せて、「これが表現の自由だ」とやった。
本末転倒なそんな主張を教師が生徒に教えたことは絶望的なほどの「洗脳」と、モスリムに対する奴隷化の「挑戦」と映ったのだろう。
反発したムスリムの一人がこの教師の首を刎ねたという事件。
それが「国葬」にまで持ち上げられ表現の自由だとされ、「殉教者」よろしく英雄視されている。虫唾が走る話だ。
そして挙句にマクロン大統領は国葬で「フランスは風刺画をやめない」とやった。
仰天するほどの珍奇な主張であり、自由主義先進国の端くれ、その大統領がやることかと呆れるばかりだ。
いや、驚く必要もない。
昔からフレンチどもの独善主義と欺瞞というのは反吐が出るほどのレベルだ。
本件は、フレンチがいかに移民を押さえ込み、裏では搾取と支配をしようとしているかの証明でもある。
そこにはフランスの醜い動機と、奴隷支配の構図さえうかがえる。しかも連中はシリアやイラクで戦うことはしないのだ。
日本人なら、誰でもこんなものは風刺画ですらない明らかな挑発であることは分かると思う。
日本は長い歴史を通じて、戦うことも「自由」であることを知っている。
表現も言論も、一人の矜持さえ命と同等のものであり、無礼な振る舞いに暴力で応じることは不思議でもなんでもないことだ。
フレンチどものずる賢いところは、そうした議論をせず、常に安全地帯に居続けようとすることである。
都合よく表現の自由に隠れ、モスリムの信教の自由は穢そうとヘイトを正当化するのだ。
彼らがヒットラーのパリ凱旋を涙と歓喜に迎えていた事実を忘れるべきではない。
こうしたフレンチのやり口は世界ではごく特殊な連中にだけよく見られることだ。
表現の自由などと欺瞞し、ご都合主義的におキレイな仮面をかぶって人を攻撃するのはザイニチ朝鮮人、韓国人らが我が国でもさんざん行っているヘイト活動でもある。
彼らのご都合主義の態度はひたすら幼稚で愚劣で、話にもならないものでそれは昔から変わらない。
いわく、自分らの主張は正しく、正当な根拠があり、受け容れるべきだという一方的な主張であり、歴史事実の検証からはひたすら逃げる。
そして捏造だろうが嘘だろうが、自分たちの利益になるからと日本を憎み、ヘイトし、ただ虚言を繰り返すだけだ。
昔からそんなフレンチに共感し、媚びようとして韓国人はよくフランスに親しもうとしてきた。
フランス留学する韓国人は多い。おフランスのエレガンスとやらも韓国人のお気に入りだ。
フレンチというのは取り入ろうとする連中を歓迎する。
フレンチの主張には議論など許されない。
疑問そのものが許されないのだ。
それは反日が当然化した韓国も同じだ。
事実の検証もせず、それを批判や風刺、表現だというのだから「風説の流布」など理解しようもない。
正々堂々議論することもしない臆病で卑怯な連中である。
つまりそこには、連中の言うご大層な自由主義など、ハナからないのだ。
表現の自由というなら、ムスリム教に言うべきことは山ほどある。
モスリム教というものが徹底した男によるオンナの支配という、女々しいだけの宗教でしかないこと。
彼らの戒律は常に男性優位というもの、危うげな立場を守るだけの縛りでしかないこと。
特定の部族や階級による支配のための戒律でしかないから、誰かがムハマドの言葉を僭称すればとたんに主導権争いが起きる秩序なき猿の群れ。
こうした、もともと文化とすら言えない支配構造であるが、そこに疑問を刺し挟ませないよう信者を洗脳し社会階層が維持されてきた。
ムハマドの名前を使って誤魔化し続けた支配だ。
こうした教義そのものの欺瞞を指摘し、現代の国際社会では決して受け入れられないということを主張すべきであるのだ。
だが、フレンチはそういう主張はしない。
彼らはムスリムの教義を嘲笑しつつ、モハメットを漫画家して悦に入るだけだ。
なぜか。それはフレンチにとってモスリムは体のいい奴隷だからに他ならない。
フランス階級社会にとって、モスリムは体のいい奴隷だ
ムスリム教に洗脳された、ロボトミー化した連中であれば目を覚まさせる必要などはない。
その一方で、立場は上なのだと思い知らせるために常に嘲笑し挑発し続ける。
なぜなら彼らあってのフランス高齢化社会の年金暮らしであり、奴隷あっての豊かさであるから。
ドイツが、難民をゲットーに封じ込めるように力での支配を選択しているのに対し、フランスは精神的な面での支配から始めているだけの違いでしかない。
そこには中国共産党とその関係者ら、そしてそこにぶら下がる中産搾取層が最下層の人々を押し付けている構図が見える。
彼らとまさに支配層と被支配層の関係、それと同じものなのだ。
戦後であるにも関わらす、昔からフレンチは強烈な階級社会だった。まだ移民の少なかった頃でも支配層は強固に自らの既得権益を守り続け平然としていた。
それがおフランスというものの本質だ。
今回は教員の殺害事件でデモがすぐに起きた。
そのデモにはコロナのマスクや覆面をした多くの有色人種がいた。
その数の多さといったらない。奇妙なことに思えるが、それがまさに問題の本質を表している。
フランスが実は社会の裏でどれだけの圧力を移民にかけているかがわかる。
モスリムも、黒人も、わざわざ「シャルリー」などという風刺画を僭称したグロテスクな挑発ビラに共感すると、デモに参加した。
暗黙のうちに「させられた」、のだ。
彼らがデモに参加して「表現の自由」などと支持をしてみせることは、中国人が反日デモに参加するのと同じ理屈でしかない。
移民の自分らもフレンチの価値感を信じ生きていると、わざわざ主張しなければどこから職を奪われるか、どんな攻撃に晒されるか、分からないからだ。
コロナ以前、日本の観光地にも多くのフレンチ観光客がやってきた。
金髪の夫婦と黒人、有色人種の子供の家族だ。
夫婦は自分らのおキレイで慈愛に溢れた人道主義を発揮している顔をして、わざわざ移民の子供をペットのように養子にもらい、そしてアクセサリーのように家族にした。
程度の良い教育をさせ、感謝は当然のことだと胸を張り、我々は人類愛そのもの、フレンチの下層階級ではないと宣伝して歩く。
その子供らの顔はみな複雑で歪んでいるように見える。
彼らが親に歯向かうことは消してない。
彼らが一度でも親に怒鳴ることはない。
養子の子供が恭順の意を示すような、そんなはりぼての家族が日本にもよく見られたものだ。
博愛主義という偽善だ。
こんな典型的な家族でないかどうか、その見分け方は簡単だ。
「その養子がよく喋るかどうか」で分かる。
奴隷には喋る資格はない。口数は少ないものだ。
だからコロナでもヨーロッパ人はなかなかマスクができなかった。
屠殺場や汚泥廃棄場で黙々と働く連中はマスクをしている奴隷だ。
支配階級には「表現の自由」がある(笑)。