除夜の鐘撲滅運動、主犯格は創価学会員
「除夜の鐘が煩い」と、クレームが入り取りやめにされたという話。
僅かの少数のクレーマーによって地域の伝統が潰される。
嘆き、失望、行き場のない人々の怒りが各地で起きている。犯人は法的な制限をすり抜けて日本に滞在し続ける中韓の外国人だという。
この「除夜の鐘撲滅工作」、これはちょっと前からあちこちで起こっていたことだ。
どうやら今年も続いていたらしい。
韓国などは最近、国自体が我が国から無視されるようになり、それでもやっている。ご苦労なことだ。
あちこちのブログ・メディアでこうした地域の報告がされ、こうしたクレーマーたちが日本人でないことが指摘され、日増しに抗議の声が大きくなっている。
日本に浸透するため、彼らはまず自分らが打ち解けられないものを拒絶する。
日本の文化的なものを否定し、日本の共同体の枠組みを覆して入り込もうとする。
日本の文化や伝統を因襲だと否定するのだ。そうしてから、「これが国際標準だ」などと、独立国に対して他の基準を迫るのだ。
もちろん人権にしても伝統文化にしても、あまつさえ秩序についても、中国と韓国、あの国にはそんな国際標準と共通するものなどはない。
日本に攻撃を仕掛けるときだけ、一方的な要求をするときだけ、連中はそんな国際標準を借りてくる。ただのご都合主義でしかない。
ザイニチ韓国人について言えば、日本への嫌がらせが目的だ。その性根は救いがたい。
韓国では大統領選も近づき、いつものように反日傾向は増していく。本国の意向に沿うようなことをすれば体面は保てるというわけだ。
中国人はというと、アメリカが中国の覇権主義を押さえ込むことへと舵を切った。そこでは緩衝国として日本を取り込みたいのだろう。韓国は役に立たない。
中国独裁主義国家の価値感に日本と言う味方が欲しいのだが、そのための進入工作というところだろう。しかし彼らの価値感は自由主義世界のものではない。
結局、中国と韓国、ともに自他共に認める日本を敵視する敵対国の連中だ。
こうした文化的な日本に対する挑戦の目的は、最終的には自分らの祖国、韓国人で言えば韓国政府のやっている乞食根性の正当化でしかない。
あるいは、独裁政権の下でこそこそと法を無視するような奴隷たち、その中国中産搾取階級の連中が日本で市民権を得ようと画策したものだ。
除夜の鐘に対する「攻撃」は、そうしたトンデモ連中が自らの発言権を強めようという、地道な草の根運動であることは間違いがない。
そんな指摘はさんざんされている。決して間違いではない。
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中国人の場合、米大統領選のトランプの時のように中国共産党指導部からの指令もあるのかも知れない。
共産党指導部は米在住中国人留学生に対し、反トランプデモに参加するよう大統領選のさなかに呼びかけたことが判明している。
もちろん韓国は日本に無視されてケツに火がついているから、ザイニチたちもこれぞアイデンティティとばかりに続けてきたのだろう。
以上のような指摘はとっくにされているし、今は強く日本人ならみなが認識し始めていることだ。
別に悪いことではない。
どの国にも異文化や敵性国家からの侵入はあるのだから、我が国の国民として自意識や国家主権を思う考えを高めることは間違いではない。
敵意を持って公然と向かってくる相手に、これまでの日本はあまりに弱腰だったのだ。
日本に敵対する勢力は人権や平等主義や反差別などと、勝手気ままに流用しただけの耳障りのよい言葉を連中は利用する。
そうした人類の基本的権利の名のもとに、連中は根拠もなく彼らの権利を認めさせようとし、ひいては秩序を崩壊させようとする。
そういう動きに日本人としては断固として立ち向かい、強く認識しないといけない。
全く異論はない。
コロナの感染状況次第ではあるが、夏になれば朝鮮模様の服を着て奇妙なタイコを煩く叩く連中が各地都市部に涌いてくるだろう。
あんな日本人の感性と相容れない祭りがされていたら、即座にクレームをすればよい。
除夜の鐘と同じように、「煩い」、と。
目立ちたい、自分たちが中心になりたい、そんな自己顕示欲だけの、恥ずかしい動機からの祭りなど日本の文化にはない。
対抗し、煩いと抗議すればよい。
110番すればいい。パトが来るだけで不逞外国人は警戒する。
市報に投書し、自治体に抗議の通報をすればよい。
「除夜の鐘が煩いと言われて中止になったのなら、あの奇妙な祭りの煩さはどうだ」、たまらない、と。
「よさこい」というのも、もはや朝鮮系だ。
なぜか高知で行われていたものが札幌、全国各地へと広がったが、やっていることは薄汚い連中のカーニバルでしかない。
そこに社会のはみ出し者らが居場所を得て騒ぐ。
「阿波踊り」も朝鮮系が入り込んでメチャクチャにされている。
これ以上の糾弾と詳細な論証については、多くの義憤に駆られた人々のブログに任せたい。
理性的で徹底した検証に基づく主張は大いにされるべきで、この問題はあちこちのブログでも取り沙汰されているはずだ。
日本人はこの現実を真剣に受け止めるべきだと思うし、拡散され大いに是非が議論されることを願ってやまない。
しかし、さてさりながらだ(笑)。
このブログの趣旨、真実の追求としては果たしてそれだけだろうか、それでよいとするわけにはゆかない。
中韓の攻撃だけに焦点を当てて溜飲を下げるのではあまりにカタルシスが過ぎるというものだ。
このことは言わざるを得ない。
確かに中国と韓国、どちらも、ともに日本を敵視する敵対国ではある。
彼らが日本で意図的な工作活動をしていたり、根拠もなく居住しながら彼らの文化を広げようとしていることもまた事実だ。
それは例えば、欧米に住み着いた日本人が近所で寿司を振るまい日本文化を広めようとすることと紙一重でもある。
欧米に在住する日本人にはザイニチの中韓とは違って確かな根拠があるが。
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それはともかく、だが本当にそれだけだろうか。
それほど中韓の敵意と攻勢が日本全国に広がっているのかどうか。
彼らの勢力の拡大はそれほど大きいかということだ。
真相は違う。
都市部ではザイニチや中国人は目立つかも知れないが、地方に行けば少ない。
コロナの影響でインバウンドが消えた観光各地では中国人の姿などない。
そして除夜の鐘中止騒動はなぜか小さな自治体でも起きているからだ。
小さな地域社会でありながら、なぜ除夜の鐘が煩いなどという話が出るのか。
そんな狭い地域社会で摩擦を起こして、そこにいる外国人が目立たないわけがない。
実は本当の現実は違う。
本ブログでは、その「除夜の鐘をやめさせようとする」勢力の、一部どころかむしろ大多数を占めるのは、外国勢力というよりむしろ「創価学会員」であることをここに指摘する。
現在、創価学会が日本の伝統や文化への攻撃をし、破壊活動を行っているという事実だ。
そして公明党は自民党に寄生し、存在感を維持しようとしてきた。
その「政策の成果」は、信者らをつなぎとめるための自己実現となっていた。
ことあるごとに公明党は思いつきで政策を押しつけ、政府に飲ませてきた。
だが、公明党が政権与党の一員として存在感を示そうと自民党との共生を続けてきたことで、公明党を支えてきた「創価学会」の方向性からは離れていった。
創価学会員は自民党議員に投票をし協力してきた。もはや彼らの自己矛盾は臨界点を越えている。
彼らは国家の独立よりも宗教団体の結束が大事であるし、秩序よりも創価学会以外の宗教が「邪教」であるという主張があるからだ。
その上、創価学会員らは中韓に擦り寄ることを好む。「SGI」、すなわち「創価学会インターナショナル」とし、そこには日本の文字はない。
平和だの人権だのと左翼思想に偏ったその主張もまた、創価学会員にとっての金科玉条であり、学会員としての異議を唱える美辞麗句だった。
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それが民主党政権という悪夢を経て、独立国としての尊厳を取り戻しつつある日本ということになれば、これからの方向性はいっそうこれまでの学会員のスタンスとは相容れないことになる。
つまり今や、創価学会の「政治的な面でのまとまり」は風前の灯なのだ。
このところ創価学会の内部では資金的な問題が出てきたと言われている。
それは、これまで「自己実現」のネタであった与党と連立する公明党、そしてその政策というものが、創価学会構成員の達成感と齟齬をきたし、学会内部の一体感が薄れてきたことにもよる。
信者からの浄財も減りつつあると言われている。
こうして衰退の道を突き進んでいるように見える「創価学会」だが、実はもはや宗教団体ですらすでにない。
すでにその弱体化は公然の秘密だったのだ。
これまで創価学会は「日蓮正宗創価学会」を名乗っていたが、日蓮正宗の本家の寺である総本山からはとっくに破門されており、日蓮宗の宗派を名乗ることは出来なくなっている。
今は「創価学会」と名乗っている。
彼ら学会員は、未だに「仏法」とか「仏の道」などとクチにするだろうが、その根拠はとうに失われ、創作した宗教でしかない。
かつてのオウム真理教などと同じく、カルト教団のひとつである。
だいたい仏教の姿を借りて、今でも信者たちが日々念仏を唱えているその「勤行」とは、いったいどんな歴史や何を背景にしているのか。
訳が分からない。誰も説明などできない。
彼ら創価学会員の信じる「宗教」とやらがいったい何なのかは曖昧だ。
それが公明党を通じて政治参加を目的とする団体なのか、いったいどんな理想郷や極楽浄土を信ずるものなのか、はや曖昧すぎて宗教団体としてのまとまりが維持できるかどうかも怪しい。
彼ら創価学会が内部で続けている儀式は、まるで韓国人のでっち上げた「創作茶道」でしかないというのも象徴的だ。
韓国人は日本の茶道よりもオリジナルの茶道は韓国にあるとでっち上げようとし、現代でわざわざそれを主張したいがため、奇妙な創作儀式を作り上げて披露した。
日本のネットが腹を抱えて笑ったあの異常なティーセレモニーのことだ。
創価学会にはあれと酷似したものがあると言える。
そうして、韓国と同じように創価学会は宗教的な創作を続け、信者をつなぎとめようとしてきた。
彼らは寺から破門されると仏壇すら創作していった。
彼ら信者の墓は破門後、ここ数十年来移設され、寺を追われた連中はまるでカルト教団のコミューンのようにして独自の墓地を作っている。
創価学会には「寺」とつながるものはなく、数百年の伝統と歴史に支えられた具体性などどこにもない。
つまり、ありていに言えば、「創価学会」は今や伝統ある宗教を憎むようになったのだ。
それは怨恨であり逆恨みであり憎しみだ。
その激しさは、あの「聖教新聞」によく書かれているような、過激で激しい憎悪の表現からも容易に想像ができるだろう。
彼らは自らの居場所のなさ、根拠のなくなった放擲された疎外感を激しい怒りをもって既存の宗教や宗教行事に向ける。
それは苛烈な憎悪である。
その憎悪はそれこそ彼らの宗教としての実存をさえ否定する。
そうして、そうした行動が韓国や中国を利することになろうが、彼ら中韓もまた宗教の伝統というものを理解せず敬うこともないからお構いなしというわけだ。
「創価学会」は、かつてそうだったように、他者を攻撃し、他者を徹底して憎悪することで勢力を維持するようになったのだ。
日本人が外国勢力に警戒するようになったということは、理外の理としても歓迎はできる。
しかし彼らは政権や体制の流れを読んでいるだけの衆愚だ。
日本にそれだけの外国勢力が浸透しているというのも言い過ぎで、誤りがあると言わざるを得ない。
もっと言えば、奴隷の中国人は指示なくば動かず、朝鮮人など叱責すればとたんに恭順する気質がある。
つまり、小さな自治体でも行われている「除夜の鐘撲滅運動」は、連中だけの仕業とするにはあまりも筋が通らない。
創価学会が、日本から除夜の鐘を消し去ろうとしている主犯だ。
そしてこの行動が中韓らの反日勢力を利することになろうと、日本文化の攻撃につながろうと、連中は気にもしない。
創価学会員は既存の宗教や文化に対する憎悪を剥き出しにするだけだ。
どんなに小さな自治体であろうと、居住する創価学会の信者は自発的にこうした行動を取る。
どう考えても各地で行われる除夜の鐘へのいいがかりは日本人臭いところがあるのだ。
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創価学会が主犯ということ。
既存の宗教を憎悪し、クレームを飛ばしているのだ。
彼らの煉獄から来るその憎悪は中韓の連中よりも激しいかも知れない。
それは「宗教」という名のもとに狂った亡者たちが信者だからに他ならない。
折りしも、元旦のトップニュースには象徴的な記事があった。
「創価大学」が、駅伝か何かで優勝寸前までいったというニュースだった。
何かのつながり、符牒がそこにはあると考えたほうがいい。
彼らは日本の伝統宗教に唾を吐いておいて、一方でこうして団体としての存在意義を白々しくアピールしてみせる。
そんな憎悪やカルトに染まった人間がどんな偉業を達成しようと誰からも認められないというのに。
彼らの性根、「業」というものである。
性質は朝鮮人、韓国人と変わらない。