ylliX - Online Advertising Network

毎日の社会で起きたこと

毎日の社会で起きたこと 毎日の社会で起きること 毎日の社会に起きたこと 毎日の世界で起きたこと 毎日の世界に起きること 毎日どこかで起きたこと 毎日どこかで起きること 昨日どこかで起きたこと 明日もどこかで起きること 人知れず起きていること いつかあなたにも起きるかも知れないこと 毎日の社会で起きたこと

GAFAの問題が騒がしい

jbpress.ismedia.jp

 

 

インターネットという情報の流れは、現在では世界の様々な動きの中心となっているものだ。

 今、その中の巨人たちの話題が騒がしい。

 

 特に名前を挙げればGAFA、すなわちグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンだろうか。

 

 彼らはインターネットで巨大なシェアを占めている。

 

 検索の世界で、アプリとスマホの世界で、数億というユーザー数を抱える規模で、ありとあらゆる物流と物販を支配しかねない勢いにおいて、これらの独占的なシェアを占める企業は今、議論の中心だ。

 

 

 

 その挙動が今取り沙汰され、独占的な市場支配が問題となるのかどうか、問題とすれば政治はどうすべきか、それが焦点となっている。

 

 まず先進各国が動き始めている。

 そしてネットの巨人たちをどう規制すべきか、どうすべきかが議論になっている。

 

 それは必然であり、必要なことだ。

 

 そのことが正しいかどうかではない。この場合の「正義」とは結果次第のことだからだ。

 つまりこれは紛れもない「政治」なのだ。

 

 

 考えてみればインターネットというのは、世界に今、所与のものとして敷かれているなくてはならないインフラである。

 

 このネットワークは、今ではあたかも人類にとっての動脈のようなものとなりつつある。

  もはやこれなくして人類の活動は考えられないほどだ。

 

 しかしそこに大きな血腫ができているとすれば大惨事となる。

 

 足りなければ貧血を引き起こし、動きができなくなる血液というものは、必要不可欠なものであっても、それが固まって大きくなり血流を阻害することになれば逆に命にも関わる。

 

 つまり、大きすぎてしまったネットの巨人を規制すべきかどうかは、政治からすれば当然の理屈ということになる。

 

 GAFAの問題を人体に例えれば、血流の自然な活動から生じてしまった大きな血腫をどうするかという問題と同じだ。

 

 

 もともと「経済」というものが行き着く帰結は、専制君主とまではゆかないが、最後の勝利者へと行き着く独占への傾向がある。

 

 それは競争というものの性質に由来しているから当然のことだ。

 勝者は生き残り、敗者は退散する。

 残るのは勝った者だけというわけだ。

 

 しかし我々先進国、自由社会の智恵は、そうした最後の勝利者が得られる報酬というのは長続きさせるべきではないことを経験により知っている。

 

 独占が長引けばやがて経済自体にとって悪い影響を及ぼすものとなってしまうからだ。

 

 

 つまり資本主義のゲームとして、競争を自由にさせできるだけ規制を避けるという前提でありながら、完全な自由放任というのはあり得ないのだ。

 

 チェスのテーブル自体を整備すべきは政治の役割ということだ。

  自然のままに任せていればやがて独占が生じ競争は生じない。

 

 我々は自由競争のダイナミズムから利益を得ようとする経済にいるのだ。

 

  しかし、これがネットでのことであったため、これまで政治による対応が長らく遅れてきたのは事実だ。

 その実態の見えにくさがあったために長らく見過ごしにされてきた。

 

 

 

 反面、ネットというのは、むしろ実体経済よりもその独占的な収斂への動きは激しい。

 

 なぜならネットは、「集約」し分散してゆく収縮と分散のエネルギーを使って循環し大きくなってきたからだ。

 情報は集約するし、分散は結局は集約した何らかのデータから生み出れたものだ。

 

 だから、GAFAを分割したり規制したり、その公正なやり方を監視するようにするという議論は喫緊の課題となっている。

 

 そしてそれは全くの政治的な判断でしかないということだ。

 

 政治はその役割を担っている。

 自由競争や公平性、法治主義一辺倒では足りないものを人間の判断によって補う必要があるということだ。

 

 

 「政治には何らかの役割がある」という事実は、経済の本質からすれば当然のことだ。

 

 自由競争経済や資本主義経済というのは、自然の摂理に従えば独占が当然の帰結でもある。

 それはかつてマルクスが主張したことでもあった。

 資本主義は放置放任しておけば自然に崩壊してしまう。

 

 それが「資本主義の限界」ということであり、我々はその限界を見極めながら資本主義というものを運用してきた。

 

 それが西側先進国のシステムだ。

 

 

 しかも、だからと言って社会主義共産主義、あるいは中国のような独裁が持続可能かといえば決してそうではない。

 

 哲人や賢人が政治をすれば合議して、常に最善の方向に決定を下す会議はできるだろう。

 

 しかし、我々人間の社会というのは間違える。

 我々の社会システムは神々によって運営されているわけではない。

 

 人間は誤るものであるし、過ちから後戻りしなければならないこともある。

 独裁という独善や、共産主義という集団指導体制には限界がある。

 

 それは必ず人間がやることだからだ。

 

 

 だから資本主義や自由競争の原則はシステムにその健全な動きを委ねようとしてきた。

 

 人間の判断には間違いが起きるものであり、競争というルール、そのダイナミズムによってこれを担保しようというのが資本主義であり自由競争社会だ。

 

 いわば、弱者劣敗の原則、競争による淘汰というルールを使いながらも、前に進み続けるために政治が随時調整し、自由競争によるメリットを享受しようと言うこと、それが我々が採用したシステムだ。

 

 それが資本主義、自由競争における我々西側社会のアドバンテージと言える。

 

 

 だからそこには、独占を前提とした状態に陥らせてはならないという原則がある。

 それは資本主義のゲームそのものをないものにしてしまう。

 

 だから、そこで「人為的」に、独占状態が起きそうになれば政治が手を突っ込んで修正をしてやる必要があるということだ。

 それは資本主義をメンテナンスするという政治の行為だ。

 

 これを成り行き任せにしていれば、やがて人類が共通の価値と考えている公正さや自由、人間の権利や人命など、全てが無に帰すだろう。

 

 自由主義と資本主義というのは人間によるメンテナンスが欠かせない。

 

 そしてそれは共産主義社会主義、独裁による恣意的なものとは違い、競争原理によって担保されているため、そのためにより確実で実りある成果が期待できるものとなる。

 

 

 だから、今のGAFAへ検討されている様々な規制は正しい。

 GAFAでさえ、そうした規制をバネとしてまた競争し、またダイナミズムを得て前に進むことが出来る。

 

 このまま独占状態が続けば、彼らとて内部から崩壊しかねないからだ。

 

 もちろん経営陣にはそれが分からない。

 なぜなら彼らのモチベーションは競争に勝つことでしかないからだ。その先のことなど考えようもない。

 

 

★ 例えば、まずグーグルを例に挙げれば、グーグルは結果として検索エンジンの首位を占め、独占状態を続けている。

 だが、それは一度スクラップアンドビルドしなければならないことは明白だ。

 

 その上で我々はまた前に進むことが出来る。

 そうしてもっと検索の精度を上げてゆくことが可能になるだろう。

 

 その必要が迫っていることは、今のグーグル検索のていたらくをわざわざ論じることもないはずだ。

 

 

★ アップルについて言えば、そのサプライチェーンの硬直性が問題となる。

 

 アップルは中国の不公正貿易に過剰に依存してきたため、フレキシブルな対応ができない。

 それは企業としての欠陥でさえある。

 

 しかもアップルのすることは政治に影響を及ぼしかねない。

 中国との関係が深くなり、自由主義陣営の政治に影響を及ぼすのだ。

 

 それは先進各国では許されない自由競争と政治的中立性への侵害でありそれが心配されている。

 

 

★ フェイスブックはユーザ登録者数という意味ですでに独占の問題を抱えている。

 

 フェイスブックにどんなビジョンや見通しがあろうが、それだけのボリュームの人間をグループとして集団化することはこの世界では想定されていない。

 それは国家の独立さえ脅かす。

 

 フェイスブックが仮想通貨構想を持つようになったことは必然かも知れないが、それを許すことは金融面での混乱や国家の独立権の侵害を許すことになる。

 

 

★ アマゾンも同じように独占的市場支配の問題を抱える。

 商品購買の根本的な仕組みを変えてしまったと言えるアマゾンだが、今後ともますます大きくなって支配的に需給や購買を左右する可能性がある。

 

 そうなれば急激な変化が消費と市場を変えることになりかねない。

 

 アマゾンがこれ以上の独占を強めれば、危険なマーケットが誕生することさえあり得る。

 

 そこでは核兵器さえ売買されることが正当化されるかも知れない。

 「自由売買の原則」がそこにはあるが、国際秩序がこれを許すことはできはしない。

 

 

 以上のようなGAFAの問題はどれをとっても結局は規制と統制、すなわち政治の役割だ。

 

 これらのネット独占支配企業を正しい位置に戻し、再び競争のダイナミズムを取り戻すには強い政治力が求められる。

 優柔不断な折衝レベルではなく、毅然とした確固たる信念に基づく政治が求められる。

 

 

 それは大変な作業になるだろう。

  なにしろ、我々はここまでの独占状態になるまで放置してきたのだから。

 

 

 我々は勘違いしていることがある。

 

 いくら政治があまりに愚かに見え、政治家が官僚の言うなりになっているように見えるからと言って、経済活動に政治の介入を一切させず、野放図にさせてはいけないということだ。

 

 そうすれば必ずひとつのところに収束してゆくことになるということだ。

 それは停滞と終焉を意味する。

 

 やがて勝者はより勝ち続けようとする選択肢よりも、敗者を支配しようとする選択をするようになる。

 そして敗者は勝者に従い、寄生して生き延びようとする。

 そこで競争は起きず前進はない。こうした馴れ合いは誰にとっても不利益な停滞を呼び起こす。

 

 今、GAFAの市場支配を前提としてぶら下がっている他の企業の態度を見れば明らかだ。

 

 みなが二番手、三番手につき、驚くほど顧客や市場から搾取している。GAFAがあるために、二番手三番手企業がいかに強欲でも競争が起きないからだ。

 

 

 それは結局は経済のダイナミズム、資本主義という自由競争のダイナミズムを奪うことになる。

 

 こういうことを防ぐ政治の判断ということ、それが反トラスト法の趣旨だ。

 

 日本でもこうした匙加減というものは公取委や政治がしてきた。

 

 だがそれは官僚主導によるもので不透明であった。

 

 それが責任を伴っていなかったため、間違いだったかも知れないというだけだ。

 

 

 もちろん我々は独占状態の固着、固定化を決して求めない。

 

 競争や努力の成果を信仰し、新しい時代へ前進することを望む世界にいるなら、今の競争原理が維持でき、独占がほどほどに収まるよう、時には政治による調整が必要だ。

 

 そして、それをするのは政治の役割だ。

f:id:rollitup_super:20200710100405j:plain

 

 GAFAへの規制や監督は間違ってはいない。

 時には政治の裁量も必要だということだ。

 

 

 ただ、今度はその裁量を行う政治が腐敗していないかどうか、チェックするのは有権者であり国民の役割になる。

 

  我々有権者にも責任がある。