ESGのレトリック(嘘)とは何か
今、「ESG」という言葉が最近あちこちで跋扈している。
ESG投資と言われ、従来の財務情報だけでなく、環境(Environment)・社会(Social)・ガバナンス(Governance)と、これらの要素も考慮した投資をせよという最近の風潮のことでよく言われる言葉だ。
そうして続けて、「企業のサスティナビリティ」なんて話もよく言われる。
サスティナビリティとは「持続可能性」という意味だが、その企業が将来にわたって持続可能か、安定して成長し続けられるかどうかということで言われる。
「だからESGだ」なんて、そんな話になる。
「環境に配慮しなければ持続して人類は生き残れないし、そうした認識となっている今の社会の潮流に沿うのでなければ企業は認められない。そしてそれを推進する企業統治。」
ざっと言ってしまえばそんなところだろうか。
実に不思議な話だ。
まるで人類の存続や社会の潮流を企業が左右するかのような論理だからだ。
これはペテンとまでは言わないが、あくまでレトリックでしかないと知るべきだろう。
まずそれは企業価値の向上につながるかというとまるで疑問だ。
企業は成長すること、社会に必要とされることが大事なのであって、持続できるかどうかなんて関係がない。用がなくなったら廃業だ。
時代に合わなくなれば転廃業しかない。
その次の事業が生き残ってゆける保障もない。
結局、企業はギャンブル、賭けをしているのだ。
慈善事業や何かの団体運営をしているわけではない。何かの決められたロジックに沿ってアピールをして目立てばいいというわけでもない。
しかし、そんな風に新卒の面接でも「ESG」なんて云う学生も増えているんだろうか。
想像するだけで寒々しい話だ。
まず「ESG投資」という言葉から分かるように、ESGとはあくまで上場企業のこと。
それもカネを動かして株価の変動で市場をにぎわせている企業に関することだ。
つまりそれ自体は何でもない。そこに生産性も効率も、創造も、ない。
金融市場つまりは証券取引所で株屋が、その会社の株価を動かしたり価値があるとする基準を色々と作りたいというだけで、企業に他の魅力や材料があるというならそんなものは意味がないのだ。
なにしろサスティナビリティという言葉にしてもそうだが、どうして企業が未来永劫持続し、その企業が残り続けるという必要があるんだろうか。
創業から100年続けばそれだけで偉業なのか。そんなわけはない。
時代に合わなくなれば転業するか廃業するかが当然のことだ。
寿命が尽きれば企業は終わる。
人間は誰でも死ぬのだ。
しかしこれをわざわざサスティナビリティとしてしまう、そこにもう嘘があるとしか言えない。
今、コロナで巨額の財政出動を各国が行って、それが持続可能性があるかどうか、冷静に考えれば分かることだろう。
トランプ大統領が退任直前に言ったように100年かかっても返せない財政出動をしている。バイデンはそれを上回る。
嘘も方便。永遠に借金を先送りすることにみなが合意しているから信用が担保されるのであって、誰かが疑うようになればとたんに持続などできなくなってしまう。
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もちろん、これは他に、無限の年金資金GPIFの運用や日銀の買い入れとリンクしているプロパガンダと同じものに他ならない。
あけすけに言ってしまえば、ファンドや投資信託が株を売買し、株屋がカネを回すフリをして手数料をせしめるため、あるいはそんなことを言って国のカネやら年金やらを適正に運用しているフリをするためのレトリックに過ぎないということだ。
彼らが自分たちの権益を維持するためには常にこういうプロパガンダが必要なのだ。
もちろん、今流行のESGを気にしないと生き残れないという企業も中にはあることだろう。
しかしそれは環境ともジェンダーを乗り越えることとも社外取締役とも関係がない。
それはESGに沿っているということで各種の投資資金が流入してくれ、常に株価が安定してくれてないと困るような企業だからだ。
そんな企業にとっては本体の事業よりもこうしたプロパガンダの方が重要となる。
つまり、株価対策のための「仕組み」が、こうしたキャッチフレーズでありESGというプロパンガンダなのだということになる。
だから、実務で大真面目にこんなことを言う奴がいたらそれこそ胡散臭いことこのうえないのだ。
ガバナンスなんかもともとできていないからこういうところに逃げる(G)。説明責任を社会に果たすつもりなんかないからわざわざソーシャルなんてことを言う(S)。人類共通の課題とやらに逃げればオノレの無能を隠せるから言うのだ(E)。
企業は事業計画を成功させ、資本として成長し、目標を達成する。
それが出来なければ潰れる。
成長をマネジメントできなければ衰退して退場となる。
その責任を果たすのがガバナンスだ。
しかし業績が悪くなった責任を取締役が一度でも取っただろうか。
ない(笑)。
監査役が明確なガバナンスを発揮しただろうか。
ない(笑)。
、、、もともと、ESGという言葉は国連から出てきた話だが、WHOの現状を見るまでもなく国連は私物化された国際機関に過ぎない。
株屋たちが国連を使って新たな基準を普及させようとしているというだけのことだ。
要はESGなんてやってキレイなことを言っていたとしても、そこにまるで意味はないのだ。
もともと株価を気にしないといけないような企業だからこういうのが気になるということ。
株屋の進めるプロパガンダに従うしかないのだ。
では本業はどうなのか。
本業は時代の流れにマッチして展開できているのか。
業績はどうなのか。これから先の戦略はできているのか。
まるで不明のままだ。
だいたいESGなんて、こんなことをまことしやかに流布しているからゾンビ企業がいつまでも経済の邪魔をすることになる。
地方銀行を整理し潰さないといけないのに、ESGが高いから投資するなんて言い訳がついて株価が維持され整理さえできない。
いったい銀行というのは何をする事業なのか。
バブルでハシャイだ責任はまるで取られることもなく、銀行の貸し出し機能は未だに失われたままだ。
そうして我が国から金融という機能が損なわれ続けている。
銀行のATMは市民の貯金箱じゃない。
貸付もできない銀行などに存在意義などない。
低金利でカネを調達して国債を回し、仕事をしているフリをしているだけだ。
そして連中は金融緩和のカネをピンハネして食っているのだ。
これだけのゼロ金利で住宅ローンは何倍なのか。しかもリコースローンには手さえつけられない。
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ましてや「ESG」なんて、もし新興企業が言っているなら要注意だ。
たいていは危ない企業がこれにまず飛びつく。
どうして客や市場を気にするんじゃなくて投資家のことを気にかけるのか。その動機を考えれば分かることだ。
そして、そんな会社は会社が株主のものだなんて思ってもいない。
株主の権利なんてこれっぽっちも認めないような企業だから、無能なファンドや投信、果ては日銀に株を買ってもらえれば万々歳だ。
「モノを言わない大株主」の下で好き勝手にやれるというわけ。
人事はもちまわり、取締役は無能。
外部取締役にしたって、能力など問われない。
挙句の果てにはとにかくオンナを取締役に入れればいいと言われる始末。
そういうインチキで詐欺的な仕組みが金融市場にあることを我々は知っておくべきだ。
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株屋はそうやって金融市場を牛耳ってきた。
今、仮想通貨なんかで企業が資金調達なんか始めたとしたら株屋など必要なくなってしまうだろう。
IPOでどんなに初値が高くなっても新規上場企業は少しもその資金を集めたことにはならない。
上場当日にいくら人気化しても、最初からブックビルディングで決まった価格でしか資金調達できないのだ。
だったら初値がそのまま企業の資金調達に直結する仕組みをつくればいいのだが、もちろん株屋はそんなことはしない。
そんなことを手がける株屋はいないはずだ。
呆れるほどの非効率が横行する我が国で、先進国の中でも最低レベルの生産性だと言われるこの国で、ESGなんて言葉が出てくること自体が疑問なのだ。
我が国では妙に情報システムばかりが乱立し、氾濫しているが、まるでひとつのところに向けた動きはない。
例えば、これだけオリンピック開催に疑問がついているというのに降りるスポンサーがいないというのもいい証拠だ。
会社内部にいる寄生虫やピンハネ連中が各種の契約をタテに、「進めるしかない」としているのが現実だ。
スポンサーを降りれば国民の大多数から賞賛されるだろうが、株価的にはそんな評価はされないだろう。
もし評価されそうになりそうになれば株屋がオリンピックのスポンサーを降りた会社を叩き売りまくり、なんとしても評判を落とそうとするだろう。
そういう操作すら株屋は行うはずだ。
環境(Environment)というが、しかもそもそも、その「地球環境」とやらは一方的な決め付けでしかない。地球温暖化について確定的なデータがあるわけではない。
南極の氷がどれだけ溶けただの未確認の観測情報でしかないのだ。
京都議定書以降、地球温暖化は途上国にとって先進国に援助を頼む取引条件となり、あたかもオリンピックのようなカネずるになった。
そのためにこうした「地球温暖化」の言説が一人歩きするようになった。
オリンピックにも同じ構図がある。
オリンピックは先進国からカネをふんだくり、途上国にはささやかながらバラまきをして「世界全員参加」を演出するというイベント屋のトリックでしかない。
オリンピックには平和も人権も、まるで関係がない。
そういうペテンの仕組みを維持するためにプロパガンダが使われているという意味ではオリンピックはESGとよく似ている。
途上国には炭素排出権を売るとして先進国から援助を引き出し国の内部に巣食う連中がいるからだ。
誰も疑問の余地さえ挟もうとしない地球温暖化問題というのは、すでにマネーゲームでしかなくなっている。
それは今回のコロナとまるで同じだ。
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社会(Social)、企業が社会に発信することにしたって、結局はグーグル頼み、ステマばかりだ。
それのどこが投資の基準になるというのか。
人々はどんどん有用な情報を求め、PCからスマホへ、公式サイトから小さなサイトへ分散し続けている。
ミーム銘柄潰しなどに必死なのは彼らに都合が悪いからだ。
建前ばかりの企業サイトに何の意味があるだろう。
そんなものを読ませられるのならネットの掲示板で企業情報や裏話を読むほうがよっぽど有効だ。
ガバナンス(Governance)、そうしてこれを動かす企業統治となるのだが、現状はまるで気狂い沙汰だ。
社外取締役どころかオンナを取締役に何パーセント入れろと意味不明の縛りが出てくる始末。
オンナが入っているからその会社が成長できるかなんて、あるわけがない。
能力のあるオンナがいればいいというだけだ。
能力で人を評価すべきで、性別で区別するなというべきなのに、まさに結果論ばかり。
その異常な理屈に疑問をもたれることはない。
なぜか。
なぜなら、男女共同参画というプロパガンダに賛同すれば市場から一定の評価を受けるという枠組みを株屋が作ろうとしているからだ。
つまり簡単なことだ。
これまでの株屋の基準、他の基準は古臭くなったのだ。
「自社買い」など資本の理屈としては何の意味もないのにまだ材料とするのも無理が出てきた。ゴマカシが通用しなくなってきた。
EPSもキャッシュフローも、突き詰めればうまいこと操作されてしまうかも知れない。
会計監査も甘いものだ。日産のゴーンのようなことが出てきてその信頼は失墜した。
だから金融屋が新たなキャッチフレーズの下、これが新しい会社を評価する基準でございと、やっているというだけのことだ。
そうして脚光を浴びる会社を選んでやって、株価を動かしてやる。
売買が盛んになればその手数料でメシが食えるというわけだ。
あれだけ問題になっているウィグル問題、なぜアップルはまだウィグルを切れないのか。
なぜ多くの企業がウィグルの人身売買や搾取、強制労働と虐殺、拉致監禁と縁を切れないのか。
それは株価的には関係ないからだ。
ファンドや年金機構がこれを問題にすることはないからだ。
ではESGは彼らから出てきたのではないのか?
違う(笑)。
インチキなビジネス・コンサル、あるいは株屋がハヤしているというだけに過ぎない。
ESGなどハッタリでしかない。
オリンピックと同じで、言う事はカッコいいがその動機と内実は腐ったものだ。
それは市場で一生懸命PERの低い企業を調べても必ず株価に裏切られるのと同じだ。
みんなが買い上げてくれるようハヤしてくれなければ株価は上がりもしない。そうして我慢できなくなり下げれば投げて損をする。
乗せられて損をするのは愚か者だけだ。
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「銘柄に惚れるな」という相場の格言がある。
ESG投資なんて、まさにその言葉に反するものであることはここに指摘しておきたい。
美しい事業、人類愛に満ちた企業などない。
企業は激烈なエゴで動く。それが資本主義だ。
そして、せいぜい現場ではわずかばかりの良心を傾ける人々がいるぐらいだ。
しかし、良心というのは我々市民の側にはある。
どんな企業でも我々消費者が唾棄したくなるような会社、そんな事業など成り立たない。
株主と我々消費者にこそ本来の主導権があるのだ。
「ESG」という考え方、その標準化は市民からその権利を奪おうとするものだ。
株屋がレッテル貼りをしてレーティングし、我々の判断を奪おうとするペテンなのだ。
この情報化の時代、消費者の評価、個人投資家の評価などあっというまに広がるものだ。
それをさせたくない連中がいるということだ。
勝手にテーマを作ってくれるな。
ESGなんて言うのならウィグルの人権問題を考えたらどうなのか。
中国という強盗奴隷国家との付き合いを切ったらどうなのか。