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菅の総裁選断念から分かること

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 菅首相が総裁選出馬を断念した。

 それはあまりに惨めな有様で、実に無様な引け際だったとされているが、真相はどうだったのか。

 彼は突然にハシゴを外されてしまったのか。

 

 それを見ることで菅首相がオリンピックをなぜ強行開催したかも分かるような気がする。

 

 次は岸田ということになりそうだ。

 河野がわざわざ火中の栗を拾うかは注目されるところだが、こういうことで判断を誤れば挽回が出来ないのは過去の歴史が示している。

 

 例えば、石原伸晃なんて、芽はもうとっくに消えているのだ。

 

 

 もともと菅はショートリリーフ、中継ぎ役の総理に過ぎなかった。これは自明のこと。

 安倍首相が激務に耐えかね、自身の健康問題で燃え尽きたという交代劇だった。

 

 コロナという、とにかく得体の知れない疫病の蔓延対策、それが急務だった。


 人々は登板した菅の手腕に期待した。

 これまで官房長官としてマスコミを軽くあしらうそのやり方を見て、豪腕だと誰もが考えたのだった。

 


 しかし根本的なところを国民はすっかり勘違いしていたのかも知れない。

 今の日本のマスコミなど劣化極まっていて、比較基準にもならない。
 
 無礼で傲慢なだけ、報道すら履き違えたプロパガンダだらけのアジテーター。

 フェイクにニュースを平然と流す日本のペテン・マスコミをあしらったからと言って、菅に政治手腕があるとはできなかったのだ。

 

 それは「学術会議」とやらにしても同じだった。

 子供のように裸同然で騒ぎ果て、学術会議の趣旨はどこへやら、既得権益とカネ欲しさにグダグダとまだクダを巻いている。

 日本のアカデミーなどクズだ。

 

 このことは、図らずもコロナ対策でろくな提言が学識者からされていないことでも分かることだ。自分が偉いとマウントばかり、議論になれば綱引きと牽制ばかりで中身がない。

 

 どいつもカネ目当てでしかなく信念などどこにもない。

 結局、クズを片付けたからといって有能とは限らないのだ。

 

 

 ではオリンピックはなぜ強行開催されたのか。

 もちろん菅がアスリートのことを考えたからでは更々ない。

 スポーツなど遊びに過ぎない。ろくな人生設計も出来ず、あわよくばとタレント志向の連中が群がる使い捨てのイベントに過ぎない。

 

 寄生虫よろしくスポーツ界はここ数十年と税金にタカってきた。

 各業界団体でとうとうその膿は噴出し、重鎮やドンと呼ばれる老人連中が好き放題に私物化している。

 そのどこにも健全性はないし、当のアスリートたちもまた腐り果て、その現状に文句すら言えない。

 つまりオリンピックなんてそこらのチンピラ、反社予備軍たちにお祭り騒ぎをさせているのと変わらない。

 

 

 このオリンピック開催の是非、その決断は、中継ぎ登板であった菅にとってはいわばテストのようなものだった。
 
 その政治力と意志が試された。

 麻生や安倍を始めとする連中にとってはオリンピック利権などもうどうでもよかったはずだ。

 

 すでにスタジアムは建設され、カネはとうに使われてしまっている。景気刺激効果という目的はすでに終わっている。

 オリンピック開催の是非なんて、彼ら実力者たちには全て成り行き任せでしかなかった。


 もちろん、オリンピック利権のために開催を主張する連中もいた。コロナ感染拡大の危険を圧してもやるという利権。

 果たして菅がこうした綱引きの中でこれをどう捌くか、それが見られていたのではないか、そう思う。

 強行開催にしても中止するにしても、菅がリーダーシップを取れるかどうかが見られていたのだと思う。


 菅は無派閥だから利害関係は薄い。リーダーシップさえあれば上手い方に転がる可能性もある。

 コロナ禍を乗り切り政治課題を片付ける実力が菅にあるかどうかが見られたはずだ。

 


 そうして菅はオリンピック開催に舵を切る。

 IOCとの交渉もしないで降伏し、当の東京都知事からも巧妙に開催の責任転嫁をされ、菅は逃げ場を失った。自分で開催するとするしかなかった。

 

 しかしそうして、いざ開催となっても菅は国民をまとめることも開催の金科玉条を打ち出すこともできなかった。

 優柔不断さだけが残った。

 意味不明の強行開催でしかなかった。

 

 開催の錦の御旗を見せることもできず、オリンピック憲章をオウム返しするだけの杓子定規な建前は国民を納得させることはできなかった。

 

 開催すれば国民はみな「手の平返し」をし、国民はオリンピックのテレビ中継を楽しんだと言われている。
 その真偽はともかく、麻生が言ったような「手の平返し」には次がある。それを麻生が知らないわけはない。

 

 国民はオリンピックを楽しんだからと言って、コロナ感染拡大を「無理もないこと」などと我慢などできないのだ。

 「楽しんだんだから我慢せよ」などという理屈は通用しない。


 終わってしまえばやはりオリンピックで感染拡大させたと国民は非難する。終わってしまえばスポーツイベントなどゴミだ。

 それがないものねだりの大衆だ。

 菅の支持率はマスコミの捏造分を引いたとしても相当に低いはずだ。

 

 

 菅は全てを他人に依存した。

 とにかくオリンピックを強行開催すれば各方面から助け舟が出ると思っていたのだろう。

 しかし各方面から言われるまま、自分で判断ひとつできないようでは宰相の器ではない。

 

 菅はハシゴを外されたのではない。何か政治的な駆け引きで弾き飛ばされたのでもない。横浜市長選で詰め腹を切らされたのでもない。

 

 彼自身が無能で優柔不断で他力本願だったというだけだ。

 これでは菅についていけるわけがない。

 任せられるわけがないのだ。

 


 これで菅の惨めな政治家人生は終わったのだろう。彼は自身の当選すら危ういと言われているほどだ。コンプレックスはかくも人を弱くさせる。

 

 彼が官房長官のサポート役で、総理の虎の威を借りていたうちはまだマシだったと言われるかも知れない。

 だが、その相手が劣等なマスコミや愚劣な学術会議とやらの利権グループでは菅の能力など計りようもない。

 

 岸田が総裁選出馬を表明し、「現在は派閥政治に偏りすぎている」と発言したのは偶然ではない。

 菅はそうした派閥政治という問題意識から出てきたのであり、派閥政治から脱却できるかの試金石であったからだ。

 しかし結果は目論みとは違った。派閥を持てないようでは無能なのだ。

 有能な人間は結局は派閥を作り、駆け引きをする。人をまとめて動かそうとする。派閥はそうした求心力の力学だ。

 それが自民党の歴史だ。

 

 

 一方で、今、マスコミがまた陰でこそこそと工作を始めている。

 我が国の混乱はカネになり、情報を捻じ曲げて操作しようとする勢力がマスコミだ。

 

 連中は今、なぜかこれだけ支持を失っていることは明らかな菅内閣であるにも関わらず、「野党の支持率はどこもヒトケタ台」などとやっている。

 もちろん、マスコミの報道など全く信憑性がないのが昨今だが、この報道には意図されたものがある。

 

 野党の支持率がヒトケタ台であれば国民のいくらかが野党に肩入れし、菅に反発して票が伸びるかも知れない、そうすればまた混乱しひと儲けというわけだ。

 これは明らかな情報操作だ。

 

 それがこの「野党の支持率はどこもヒトケタ台」という奇妙な報道になっている。

 もともとの左巻きや自分のどうにもならない不幸な人生を自民や既成政党にぶつける不満だけの連中はいる。

 ましてやこの菅の優柔不断さである。野党の支持率がヒトケタ台であるはずがない。

 

 かくも大衆である日本国民はマスコミからとことん小馬鹿にされ、いくらでもいいように動かせると連中は見ているのだ。

 

 しかしひとつ基本的なことがある。

 自民以外の政党で政府が機能するだろうかということだ。

 

 自民党という政党が選挙で多数となると自民から首相と大臣らを出す。

 それを「人材を政府に差し出す」と考えた方が正しい。

 

 首相や大臣となった彼らは政府となるのであって立法府の政党、自民党ではない。

 自民が多数で法律が通りやすくなることはあるが、それはあくまで立法府の話だ。

 

 政府はだから自民から批判を受けるし、今回の菅のように見放されるということもある。立法府が怠けて法律を作ってくれないということも起きている。

 コロナ感染ではろくに新しい法律はできていない。緊急事態法すらない。

 そうしたせめぎあいはある。

 つまりそれが我が国の代議員制ということを形作っているのだ。

 

 では他の野党、他の政党ならどうなのか。政党と内閣のケジメはできるのだろうか、できるわけがない。

 国家を私物化するだけだ。すでに悪夢の民主党政権で我々国民はそれを見た。

 

 日本共産党なら、明らかな独裁になってしまうだろう。

 

 民主党は政権担当時代、そうしたケジメなどなかった。まるで混乱し、政党と政府のケジメもないまま、蜜にタカる蟻のように我が国を食いつぶすだけだった。

 そしてその責任どころか反省すらされたことは一度もない。

 もちろん、今の立憲にしても危なくてしょうがない。危険なのは変わりない。

 

 

 自民党という政党から出た首相は、政府の中心として政策を進める役割となる。まとめねばならないのは大臣たち、役人たちだ。

 

 一方、幹事長は自民の中の議員たちをまとめる。

 自民党総裁であるから総理として政府のトップに差し出されただけであり、首相は政治家というよりも官僚のトップだ。

 だからもちろん自民からは色んな圧力や要求が出てくる。それを捌くのは総裁としての首相ということになる。

 

 オリンピック開催の判断はそうして菅の判断に委ねられた。そして失敗し、支持を失い、菅はどうしようもなくなった。

 

 こうした政党制度、代議員制の役割分担がされているのが自民党だ。

 少なくとも、他の野党よりは健全であると信じられる。

 

 しかしそれにしても、菅は総理の椅子にしがみつこうとするためポストを用意して小泉進二郎に幹事長をやらせようとしたという、そんな話がある。

 この話はにわかには信じがたい。

 

 小泉進二郎に国民的人気があると考えるチンプンカンプンぶりもそうだが、自民という政治組織と首相というポジションがまるでわかってないとしか思えない。

 あの歳でいったい何をやってきたのだろう、愕然とする。

 

 菅は、それほどまでに無能だったのだ。

 

 

 最後になるが、今回のオリンピックはひとつの大きなものを残した。

 これは今後とも惰性で傾向が続く可能性がある。

 

 それは「やっちまった者勝ち」という風潮だ。

 

 早くも皇室では秋篠宮の長女がそんなことをやり始めている。オリンピック強行開催を見習って国民不在のまま婚姻を果たそうとしているのだ。

 皇室という国民の財産であるものが個人の自由意志が通ると考えるとは、全く呆れた話だ。

 

 ここにはオリンピックと同じ理屈がある。

 「とにかく強行してしまえば後から仕方なく拍手を送るしかないだろう」という理屈だ。

 菅もオリンピックを開催してしまえば人気が回復し政治基盤が回復する、本気でそんなことを考えていたようだ。呆れる他はない。

 

 秋篠宮がマスコミを通して上げたアドバルーンは、なぜかもう既成事実であるかのようになっている。

 眞子はパスポートをもらい、日本国民の許可を得てアメリカで暮らすことになっている、すでに決定事項であるかの報道だ。

 そんなことを決める権利は皇室にはない。

 

 やっちまえば勝ちだ、その理屈である。

 

 これは法治国家危うしというレベルではないか。

 

 

 こういうことはコロナの自粛のお願い中味のない宣言、補助金を出しながら趣旨に従わなかったときの罰則もなし、とにかく行き当たりばったりのコロナ対策がすでに示してきたことだ。

 

 コロナでは誰もが決断から逃げ責任から逃げている。世界中でそんなことが起きている。

 

 そのことからすればこのワクチンも危ないものにしか思えない。自己責任であるはずのものが連日のようにしつこいほど勧められるといういかがわしさ。

 そしてそれを言っている連中のほとんどが医療関係者だ。彼らはワクチン接種の利権を得ている。

 

 かくも命は軽くなった。

 成り行き任せ、とにかくやったもの勝ちだ。

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 そして官僚たちもこの隙に利権漁りに余念がない。