組閣方針の一般常識との齟齬
組閣。あまりこういう何でもないイベントは記事としてコメントしたくないが、なんとも野党の情けなさしか感じない。
メディアがあれだけ毎日、菅が官房長官時代に異常なほどの反日をさらけ出し、まるで「揚げ足取りが報道である」などと勘違いしていたというのに、野党からの批判もまた同じようなものだった。
これでは同類でしかない。
ともに沈没する連中ということか。
こういう揚げ足取りが同じように菅内閣になって続けられるわけもない。
「まだ官房長官時代のヤジが通じると思っているのか」で終わりである(笑)。
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しかしそうした下世話なヤジや、まるで大喜利みたいな野党やマスコミのパフォーマンスを別にすれば、「組閣」ということに関しての一般的な議論はできる。
まず一番に注目されているだろうことは、なぜ、次の総理であると目されている河野、あれだけ米との緊密な連携も維持しており、中韓の脅威に適切な対応が出来ていた当の防衛大臣を担当から交代させたかということだ。
その点について国民のほとんどには「残念だ」という気持ちがあるに違いない。
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しかし、これは自民党という保守主流の党には、党として横綱として、各種の縛りというものがあるからに他ならない。
それは「持続可能性」ということ。
誰か有能なひとりの政治家頼みということは絶対に許されないのだ。
それこそ、伊藤博文ひとりの暗殺で変わってしまうような体制では困るのだ。
それはまたすなわち、次の有力な世代となる連中は次々と試され、温存されるということになる。
自民とはこうした慣習を踏襲してきた。
組織や政党を維持発展し続けるメカニズムは自然と出来ていると考えていい。
★ もちろん反対に、野党を見れば連中にはそうしたルールも暗黙の了解もない。
やっていることは個々人の単に権力闘争でしかなく、単に揚げ足取り、子供じみた争いや仲たがい、烏合集散でしかない。
だから、野党、旧民主党勢力はいくら名前をリツミンに変えようがなんだろうが、「党要綱がない」という、政党としては決定的な欠落が放置されていたりする。
それはおかしなことだ。
国民とすれば、それでどうして野党を支持するかという、その根拠がないことになってしまうからだ。
単に彼らをイメージで支持しているというなら、それはアイドル投票と勘違いしている能天気な連中ということでしかない。
国のことも真剣にも考えてないだろうし、つまるところどうしようもない人々ということだ。
そんな人たちはいるものだ。それは大衆社会の定め。彼らが落ちこぼれるのはしょうがないことだ。
★ そもそも野党には要綱もなければまとまる思想的な柱がない。
そうなれば結局、在日とか特殊勢力ぐらい、あるいは特殊な政府転覆ゲームの考えに囚われた頑迷な人々が反政府のゲームをしているというだけということになってしまう。
国民のうち支持者らは、自分らがいくら困窮しようがあえごうが、カタルシスを求めこんな連中に多額の税金を突っ込む。
だから実に呑気なものだ。
しかも、こんな連中からは官僚支配の構図からの脱却はどこにも見えてこない。
★ つまり、野党のことを考えれば、河野のように防衛大臣として欠くことのできない資質を持ち、これまで大いに活躍してきた人をなぜ変えたのかということは、自民内部のことから説明されねばならない。
期待をかけていた人々の中には、なぜ交代させたのかという疑問は起きることだろう。
その答えは、「政府は閣僚の一人ぐらいいなくても回せるぐらいでなくてはいけない」という危機管理意識、その伝統と言うところにある。
男の嫉妬とか、ポスト持ち回りという外野の下世話な憶測はともかく、ここで河野を変えても相変わらず同じように国の防衛政策が変わらないとなれば、それは日本を敵視する勢力に対してより強いメッセージになる。
そもそも防衛は外交の延長にある。
人材が変わるだけで変更される外交政策などありえないからだ。
だから河野は外務、防衛と歴任し、それぞれの立場で道筋を作った。
だから次ぎの大臣は、またこれを引継ぎしながら自分の政治色を盛り込んでゆくということになる。
日本が逆回転することはもうない。在日や外国人どころか、韓国との関係は冷え、中国との関係は穢れとなってゆくだろう。
脱出するなら今しかない。
★ 外国勢力やマスコミはこうした「人事」について、昔から権力闘争や派閥間の取引としか受け取れないでいた。あるいはそうした「茶番」と捉えていた。
それは中国が無法国家の独裁政治であったり、韓国が集団ヒステリーによって動く雰囲気だけの「国家」だからなのだろう。
結局、自分たち内部がそうであるから、同じような眼鏡で見てしまうということでしかない。
哀れにもほどがあるが、我が国はそれを同情する必要もない。
★ そして、もはや菅政権の布陣だのその内閣の性格などと云々している時代ではないということ。
日本は継続性と一貫性をもって同じ方向を見続けるということでしかない。
その舵の方向は誰にも見えているはずだ。
知らんフリや分からないフリをしても自己責任だ。
それが分からないのがいるとすれば外国勢力であり、外国勢力の傀儡となりつつある日本の報道マスコミだ。
つくづく時代遅れになっているというだけだ。
一般の組閣に際するお祭りのような感情や、マスコミの見る床屋談義の視点とは、本質はまるで違っていたのだ。
それは我が国全体の進む方向、潮流を見る上では忘れるべきではないことだ。