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オープンソースの罠、よもや噺

 「オープンソース」という言葉があります。
 よくテクノロジー系のビジネスで使われる言葉です。

 

 それだけ社会がソフト化したということでしょう。

 テクノロジの中味を公開して自由に参加してもらい、改変や応用も自由にやってもらい、その技術の普及のスピードを重視するという手法です。

 

 

 本来、特許や技術というものは、ブラックボックス化をして企業はテクノロジの中味を秘密にしておきたいはずで、これをオープンにしてしまうことは一見するともったいなく思えます。

 

 ちょっと昔のビジネスマンならオープンソースなんて否定したことでしょう。

 

 しかし、世間が利用してくれなければテクノロジの陳腐化は早いものです。

 最近の先端を行く技術でも安穏とはしていられないのが昨今です。

 

 

 

 だから、みんなに参加してもらい、いわば「神輿を担いで」もらい、最終的にはシェア争いで勝ち残ろうとすること、あるいは側面支援でビジネスを展開しようとすること、そんなビジネス戦略です。

 

 

 逆に参加する側からすると、そこにはある種のトラップ(罠)があるようにも見えます。

 「オープンソースのトラップ」なんて、こう呼んだりする向きもあります。

 

 オープンであるがゆえに、廃れてしまったり、代替技術にいつ取って代わられるかも分からないからです。

 よくあることですが、言いだしっぺが真っ先にやめてしまったりしますw。

 ハシゴを外されてしまうことになります。

 

 

 開発のソースや材料、内容物、構成、作り方、全てを共有し公開してしまいます。


 こんなサービス、こんなシステムがある、このテクノロジはこれだけ世の役に立つのだと宣言し、みんなにビジネスチャンスを無償で提供してしまう。

 それがオープンソースということ。

 

 「ビジネスチャンスの基盤となる情報」、これを「共通のプラットフォーム」なんて言い方をしたりします。

 

 

 しかしこれに乗るのにはリスクがないわけではありません。

 

 なにしろ主流なものとなっていかなければ参加することが意味のないものになってしまいかねません。

 せっかくの人的リソースや資源を使って支えても、一切が無駄になるというリスクがあります。


 これがなんとか「主流な技術となること」を「メインストリーム」なんて言ったりします。

 つまりそんなにアテになるものでもない。

 

 

 「スタンダードとなる技術は積極的に公開し、社会貢献を果たし、その上で競争してゆく」なんて、カッコよく言ったりしていますが、結局は色んな人々の手を借りてみんなに協力させ、成長してゆこうという魂胆でしかありませんw。

 

 だから言いだしっぺは見切るのも早い。

 

 だいたい「スタンダード」なんて結果に過ぎません。ですから、名乗りを上げただけでなれるものでもない。

 

 結局、実は「ソースコード」ならぬ、自分たちに開発継続の「リソース」がなかった際の言い訳だったりもしますwww。

 

 


 そしてこういうことを言い出す連中に言えることは、最後は自分らは必ず勝てる、成功の果実が得られると信じているということです。

 つまりはそこが資本力なのです。

 

 それは最後はイメージとブランド力勝負になってしまう。
 無駄な開発をしてダメなら捨てられる資本力、そんな余裕が必要になります。

 関わっている技術者からしたらたまったもんではないでしょうが。

 

 

 あまり技術の中味の問題ということではないかも知れません。

 

 そんな競争に引き込まれたくないと弱小企業は悩むものですが、一度メインストリームができてしまえばその流れには乗らないといけません。

 なかなか逆らえない。


 そうなると後発になればなるほど不利です。

 それで弱小企業はこれにぶら下がるようにして取り入ったり、自分たちを認めてもらえることで一定の立場が占めように、それを狙って参加したりして、その勢力が大きくなる流れを支援しようとします。

 

 

 そうして誰にも逆らえない流れになったりすることもありますが、そうでない場合も実に多いものです。

 そういう淘汰を経るだけに、最後は資本があるところが成功の果実を独り占めしてしまう結果になることが多い。

 

 これがオープンソースの罠です。

 

 


 だから、たいてい言いだしっぺはそのリスクを隠そうとします。

 時には自分のビジネス自体を裏方にしてみたり、サポートを無償で手厚くしてみたり、色んな手を使ってきます。

 

 「彼らはどこで儲けるつもりか」なんて、ハタからはまるで見えなかったりします。

 

 なにしろ、それはオープンというだけであって、それが生き残るかどうかは誰にも分からない。
 そのリスクは実は人々に負わせてしまっているのです。

 

 それは「テクノロジの栄枯盛衰」なんて生易しいものではありません。

 

 

 参加者の多寡によって廃れたり、世代交代するというだけで、こんなものに乗っかるゲームはそうそう真剣にやってはいられません。

 なにしろ人を巻き込んでゆくだけなんですから。

 

 末端の技術者からしたらたまったもんではない。

 のめり込めばのめり込むほど、いつハシゴを外されるかも分からないリスクが深まってゆく。


 だからこういう話には必ず「資本提携」とか「業務提携」というリスク回避策がされるものです。

 

 

 よくありがちなキーワードに絡んで、もしこうした資本の動きがあったとしたら、逆にそれは良い兆候かも知れないということです。 


 「今はオープンソースの時代」なんて言って、そういう宣伝文句に闇雲に飛びついていれば弱小はツキや運だけで戦うことになります。

 それに、遅ればせながら飛びついたときにはたいてい遅いのです。


 初動から動きたかったら提携なり協力しながらリスク分散をしていかないと危ない。

 だからこその提携です。

 


 ここで企業の「価値創造」とは別なことで、ひとつの結論が導かれます。

 

 だから、オープンソースというのは産官学でやってはいけないということ。
 規格なんてトップダウンで決めてはいけないということです。

 

 企業連合を官僚が呼びかけることはとても危ないということ。

 

 
 営利目的で商売の一貫でやっているから、支持が増える。
 メインストリームとなるかどうかは後からついてくる。厳しい淘汰の結果なのです。

 そうして広がっていけば先がある。

 

 すぐにバージョンを上げないといけなくなります。

 官僚主導でこんなことをすれば破綻することは目に見えている。

 

 そういうムダな徒労を怖がらずにやれるかどうか。

 それが資本力
 資本を正しくそういうところに使っているかどうか。

 

 

 産官学の連合で号令を官僚がかけたようなものはスピードが遅い。

 それも、参加資本に必ず不公平がないようにと必ず配慮されたりします。こういう八方美人は間違いのもとです。

 

 いきなり規格が変わったりして、これまで培ってきたことが全部ムダになるなんてことはテクノロジーの世界では日常茶飯事です。

 

 官僚や学者がその責任を取れる訳がない。

 

 こういうことは研究開発における無駄というだけではありません。

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 官僚が標準化を腐らせるよい例です。

 

  ひいては日本が危ない。

 


 オープンソースを担ぐ企業の先を読むには、違う指標が欲しくなります。